起業までの物語

代表取締役/小田の起業までの物語
The Story of President-Oda’s Business Startup

想いのままに行動してきたことで、多くの皆さまにご迷惑をおかけしてきました。
そんな私/小田の起業に至るまでの物語を紹介いたします。

-1998.4グラフィックデザインを学んだことから、印刷工程の製版部門を担う企業に就職、DTP業務に従事

入社して半年が経つ頃、いつかデザイナーになりたいと思いながらも、社内のデザイナーのデザイン力と自分を比較し、自身のデザイン能力に限界を感じ、映画好きだったこともあり映画業界の転職先を模索し始めます。中途半端な気持ちのままの転職活動だったこともあって上手く進まず、入社から2年半が経過…。意を決して退職日を決めて転職活動をしたところ、すぐに内定をいただき、いよいよ初めての転職先へ転職となります。
-2001.6映画タイインプロモーションを企画する企業に転職

デザイナーのサポートスタッフとしての採用でしたが、デザイン力がなかったこともあって、WEBディレクター、営業アシスタント、営業、イベントディレクター、個人情報管理責任者、サーバー管理責任者、など様々な経験を積ませていただきました。在籍中に、同社ロサンゼルス支社に入社して、東京本社に研修に来ていた同僚の台湾人女性と出会い、仲良くしてもらいお付き合いさせていただくことに。Berlitzで英語を学び、ちょっとずつ語学力がついていくも、どこか、違和感を感じていて、少しずつ北京語の必要性を感じ台湾留学を決意、退職することになります。
-2008.9台湾国立台湾師範大学、国語教学センター北京語課程へ留学

台湾へ渡航する直前、フライト予定日の2日前に台湾人女性からメールが届き…「別れたい」との衝撃の内容!! 台湾への渡航費を支払っていたこともあり、何のために台湾に行くのかわからないままに、渡航することになります。期間を決めない、初めての海外での生活にワクワク感もありながら、喪失感もありましたが、仲良くしてくれた日本人や外国人の友人たちのおかげで、濃厚な6か月間を過ごすことができました。この留学期間で出会い、親友と言える友ができたことは、本当に幸せなことです。あと、私の妻でもある日本人女性と出会ったのもこの台湾留学期間中で、ある意味、このために台湾にいったのかも?と、今では感じております。妻とは2011年に結婚し、2児を授かっております。
-2009.66か月の留学を経て帰国、成田空港近くのホテルと東京汐留駅近くのホテルにて通算1年間、ホテルの接客業務に従事

映画業界の仕事で、毎月数回運営に携わっていた試写会で感じた、接客の喜びが心に残っていたこともあり、いつかホテルで仕事をしてみたい、という夢見たホテル業界で仕事を始めます。最初のホテルは、実家から通勤圏内の成田空港近くのホテルでした。ここでは、ベルデスク業務に携わり、日本語・英語・中国語を使った接客に従事し、多くのお客様にお会いしましたが、私の不十分な英語にも関わらずお客様がお帰りの際に「It’s good to see you.」と言っていただけたことは、接客の楽しさを再確認させてくれる出来事で、私の誇りでもあります。その後、東京都内のラグジュアリーホテルへ転職し、料飲部に配属され創作高級フレンチのフロアを担当しました。ここでは、バックヤードでの人間関係に気持ちが負けてしまい、体調を崩すことに。外国人マネジャーから評価していただき、昇進のお話もいただきましたが、最終的に退職することをお伝えし、映画業界への再転職を決意します。
-2010.6映画の公式HPやWEB企画、携帯キャリアの課金サイト運営を行うIT企業に転職

当時、スマートフォンが市場に出回る直前で、入社した会社は、いわゆるガラケーの公式課金サイトを運営している会社でした。扱っていた情報は、映画情報、海外ドラマ情報、セレブゴシップといった内容で、最初は編集業務に従事し、後に営業に替わりました。この会社は、実質、経営されていた役員の方の栄養もあって、3名が鬱になり2名が退職することになりますが、私自身も鬱に近い状況に追い込まれます。そうこうしているうちに、精神的な影響かミスが目立ち始め、大きな挫折を味わいます。2年が過ぎた頃、以前勤めた会社の社長さんから台湾駐在のお話をいただき、思い切って台湾駐在を決意します。
いま振り返ると、とても大きな転機だったように感じます。
-2013.1台湾現地オフィス代表者としてオフィス運営業務全般業務(財務、経理、人事、営業、企画など)に従事

前職を12月31日付で退職となった翌日、1月1日から、台湾での生活が始まります。最初に担当したのは、日系企業向けのライセンスプロモーション企画の立案と提案でした。大手日系時計メーカー様に4コマ漫画企画を提案し採用していただけたのが最初の受注でしたが、留学した経験があるとはいえ、商習慣が違う海外での受注は、凄く嬉しかった記憶があります。その後、現地オフィスの代表としてオフィスマネジメント業務にも携わります。資金調達したり、人員を増やしたりしながら、キャラクターイベントを自社で主催したり、小学生向けフリーペーパーの創刊・広告営業などの業務も行いました。キャラクターイベントでは、大成功したイベントもあれば、大赤字のイベントもありますが、どちらも素晴らしい経験です。フリーペーパーの創刊にあたっては、台北市市政府のホームページにPDFをご掲載いただいたり、台北市内や近郊都市の博物館や科学館、森林公園といった行政が運営する施設とのタイアップも実施し、営業では、小学校でのイベント実施を獲得するなど、勉強になったことが多くあります。駐在5年目を迎えた2017年夏に東京本社への帰任命令があり、里帰り出産していた妻に相談したところ「広島で子育てがしたい」ということを言ってくれたこともあり、退職する旨を社長に伝え帰国し、広島へ移住することになります。
同社での仕事を続けたい想いが強くありましたが、家族を優先しました。いまは、広島での出会いやこれまでの経験も含め、この時の判断が間違っていなかったと感じています。
-2018.2プロスポーツチーム向けにキャラクターライセンス商品の販売を行う企業に就職

私の経験が活かせそうな企業に採用していただくことができ、未経験ではありましたが、生産管理部の部長職として、経費削減や業務の効率化などを進めつつ、経営陣への提言なども行っていました。入社2年目に差し掛かろうとした頃、上長から台湾プロ野球への商品提案の可否を問われ、台湾駐在の頃に台湾プロ野球の各チームと、小学生向けのフリーペーパーでインタビュー企画をさせていただいたこともあり、連絡先を知っていたことから商品提案が実現し、同社の海外向けの初めての実績が実現することになります。生産管理部のマネジメントと海外営業の二足の草鞋を履く形にはなりましたが、とても楽しい時間でした。3年目を迎えた夏、商品の製造を依頼していた取引先の台湾タオルメーカーの社長が「日本市場に挑戦してみたい」と話されたことで、これに呼応する形で、退職を決意します。正直なところ、相当、思い切ったことだったな、と感じていますが、自分らしい判断でもあるので、後悔はありません。
-2021.1台湾タオルメーカーの日本市場開拓を担当

年が明けて、海外企業の日本市場開拓という、まったく未経験な領域に挑戦しますが、4か月を迎えた頃、日本市場向け資金が不足した旨の連絡が台湾本社の社長から連絡があります。致し方ない部分もあったため、日本市場開拓を断念し、転職活動を始めます。
同時に、同社の日本支社設立の準備を進めていたこともあり、既にお取引いただいている会社様もあったことで、自身が代表となる株式会社便利箱を設立することを決意し、現在に至ります。
「便利箱」という名称は、妻と会社設立の話をしていた時に、たまたま、私の部屋に置いてあった、台湾の郵便局が販売している段ボール箱「便利箱」を妻が見つけ、「便利箱はどう?」となり、会社設立にあたり、お世話になった方に相談したところ「良いですね!」とのお言葉をいただき、決めました。
台湾から日本、日本から台湾、台湾から海外、日本から海外、国を超えて人と人、企業と企業、人と企業が繋がる一役を担いたい想いもあったので「便利箱」という名称がハマった感じでもあります。

※2021年8月~2022年1月の間、70年以上の歴史を持つ地場の印刷会社に就職し副業を許可していただき、業務に従事しましたが、社風が合わずに退職しています。

私/小田の「あらゆることに挑戦したい」気持ちと、周りの方々からいただく挑戦状に応える形で行動してきました。“誰かの役に立ちたい”思いから、単に利用されてしまうこともありますが、人と人が繋がることで起きる化学反応が、私にとっての楽しみであり、一番の喜びです。